2014年御翼2月号その2

日本人は宗教的に曖昧(あいまい)か

  

 日本人の宗教観は曖昧だとしばしば指摘されてきた。それでは、日本人社会は福音を受け入れる謙遜な「良い土地」となり得ないのだろうか。以下は、クリスチャンのファイナンシャルプラナー松島 修先生のコラムからである。

 もともと日本人はとても信仰的だと思います。日本人が信仰的だという理由は、以下のようなメンタリティを持っているからです。
・手紙の最後に「お祈りします」と書きます。
・天職・天命にあこがれます。
・子供は天からの授かりものという表現をします。
・お天道様が見ているという表現をします。
・おかげさまという感覚を持っています。

 このように日本人は信仰的である一方、宗教は嫌いな人が多いです。これは、素晴らしく、よいバランスだといえます。なぜなら、信仰と宗教は全くの別物であり、これが分かると投資でもビジネスでも、様々な分野において突破口になるからです。信仰とは、難しいものではなく、儀式や形式ではなく、何かに依存することでもなく、自分の努力で打破することでもなく自己中心ではなく天を信頼することであり、天に生かされているということです。
日本人が信仰的だからといって、このままでよいのではなく、真の愛なる神を知る必要がある。なぜならば、松島先生は、「神に愛されていることを真に理解できていないと、一時的に成功したとしても、突然、急変したりして、以下のようになります」と言う。
・宗教的になり、堕ちていく
・高慢になり、堕ちていく
・大きく利益になっていたのに、一瞬で失う
・お金が入ることで、身を滅ぼす
 そして、「神に愛されている」を分かるには、全てのことに感謝することが大切だと言う。良いことは勿論、「辛いことも感謝する」と奇跡的に改善されることにつながるのだ。
 どうして辛いことも感謝できるのか。それは、試練には訓練となり得るからである。松島先生は、試練には5つの意味があるという。
一 神を知るための試練(自己中心にならず、自分の力に頼らず)、
二 天の定めた秩序を知る試練(高慢にならないため)、
三 与えられている使命・目的・賜物を正しい方向に向かわせるための試練(的はずれの人生から的を射た人生への方向転換)、
四 人格を整えるための試練、
五 更に良いものを与えるために、今あるものを取り上げるための試練。
 試練の意味と価値を理解することで、人はピンチをチャンスにすることが容易になる。

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